おはぎ屋もともち
おはぎの世界
日本人に愛され続ける味と歴史
四季折々の風景とともに楽しまれ、お彼岸には祖先への祈りを込めて供えられてきました。
遥か昔から受け継がれてきた、日本の伝統の味。その甘さの裏にある物語を知れば、おはぎの味わいはさらに深まるでしょう。
おはぎ屋もともち
おはぎの物語
受け継がれてきた和菓子、おはぎの物語にふれてみませんか。
おはぎ(ぼたもち)は日本人に古くから親しまれてきた伝統菓子です。起源は鎌倉時代まで遡り、1210年頃の『宇治拾遺物語』や1330年頃の『徒然草』に「掻餅(かいもち)」という名前で登場します。
当時は宴席で振る舞われるごちそうで、現在のおはぎと似た菓子が既に作られていたようです。
その後、時代を経て「牡丹餅(ぼたもち)」や「萩の餅」と呼ばれるようになりましたが、これが現在のぼたもち・おはぎにあたります。
春の彼岸に食べるものを牡丹の花にちなみぼたもち(牡丹餅)、秋の彼岸に食べるものを萩の花にちなみおはぎ(お萩)と呼び分ける習慣があります。
つまり季節によって名前が変わるだけで、指している食べ物自体は同じものです。両者の名前は季節の花に由来し、春は牡丹、秋は萩が咲く頃に供える餅という意味になります。
なお「おはぎ」という呼び名は、京都の宮中で女性たちが使った丁寧な言葉遣い(女房言葉)が由来で、萩に敬称の「お」を付けたものです。まんじゅうを「おまん」、せんべいを「おせん」と言うのと同じ例で、萩餅が「お萩(おはぎ)」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中期になると、おはぎ・ぼたもちは全国に広まりました。
地域によって呼称もさまざまで、1775年刊行の方言辞書『物類称呼』には、関西や北陸で「かいもち」、秋田で「なべしり餅」、栃木・福井東部・新潟で「餅のめし」、千葉北部で「合飯(ごうはん)」など各地の名前が記録されています。
歴史的には東京で「おはぎ」、大阪で「ぼたもち」と呼ぶことが多かったという説もあります。
また江戸中期の資料には、餅にあんこをかけて萩の花のように見立てたものを「萩の花」と称し、女性言葉で「お萩」ともいったとの記述も残っています。
このように名称や呼び名は時代と地域によって様々でしたが、現在では一般に秋彼岸も春彼岸も区別なく「おはぎ」と呼ばれることが多くなっています。
おはぎ(ぼたもち)はお彼岸に欠かせない供養菓子として定着しています。
春分・秋分を中日とするお彼岸の期間、仏前におはぎやぼたもちを供え、家族で食べる風習は江戸時代から続く伝統です。
先祖の霊を慰め、敬意と感謝を込めて供えるものであり、近隣や親戚とおはぎを贈り合う習慣もありました。おはぎに使われる小豆の赤色には邪気を払って病を除ける力があると信じられ、先祖供養とともに無病息災を祈る意味が込められています。
また原料のもち米そのものも五穀豊穣に通じるため、春のおはぎには豊作祈願、秋のおはぎには収穫への感謝の意味が託されました。
実際、春のぼたもちは豊かな収穫を願う祈り、秋のおはぎには今年の実りへの感謝が込められていたのです。
なお江戸時代には、彼岸以外にも四十九日の法要や旧暦10月の亥の日にぼたもちを作って供える地域もあったようで、季節の行事や法事においても特別な位置づけが与えられていました。
おはぎ作りにはもち米を使用します。伝統的にはもち米を一度蒸し、その後に半分ほど粒が残る程度につく(つき砕く)方法がとられてきました。鎌倉時代の記録にも「もち米を蒸してつぶし、あんこをのせて包む」レシピがあり、現在とほとんど変わらない製法だったことがわかります。
この半つきの餅は程よい粒感があり、粘りと歯ざわりの両方を楽しめるのが特徴です。米粒を半分だけつぶした状態を、俗に「半殺し」とも称します。物騒な呼び名ですが、米を完全には搗かず半分だけ潰すことからそう呼ばれました(地方によっては小豆あんの粒を残すことを半殺しと呼ぶ場合もあります)。
現代では炊飯器で炊いたもち米を飯杵や木べらで軽くつぶす家庭が多く、もち米に少量のうるち米(白米)を混ぜて炊くと冷めても硬くなりにくいという知恵も広く知られています。
出来上がったもち米を手のひらで小判型にまとめ、中に餡を詰めたり外側に餡をまぶしたりして成形します。伝統的には手水を使って手を濡らしながら成形し、表面をなめらかに仕上げます。
家庭では素手で愛情込めて丸められたおはぎが一般的ですが、専門店では形を整える技術や道具を用いて見た目にも美しく仕上げます。
そのため、お店のおはぎは均一で美しく揃った形ですが、手作りのおはぎは大小さまざまな素朴な形になりがちで、そこに家庭ごとの個性や温かみが表れるともいわれます。
おはぎの餡には主に小豆餡(あんこ)が使われます。
基本的な作り方は、小豆をやわらかく煮てから砂糖を加えて練り上げ、適度な固さに炊き上げる方法です。伝統的な和菓子の世界では、「豆を煮てから砂糖は後で加える」のが鉄則です。砂糖を先に入れると豆が固く煮上がってしまうため、十分に豆を柔らかく茹でてから甘味をつけるのがコツでした。
ところが日本に砂糖が普及する以前は、甘い餡は一般的ではありませんでした。砂糖が貴重品だった時代には、小豆餡は塩味や天然の甘味料である甘葛(あまずら、ツタの樹液を煮詰めたもの)で味付けされており、現在のように甘い餡ではなかったといいます。
室町時代以降、中国や南蛮貿易を通じて砂糖がもたらされても長らく高級品で、庶民がおはぎに使えるようになるのは江戸中期以降でした。
江戸時代前期までは餡も塩味主体でしたが、砂糖の流通量が増えた後期になると一転して極めて甘い餡を使った菓子が各地で生まれています。それでも江戸時代を通じて砂糖は高価だったため、おはぎ・ぼたもちは特別な行事の時にだけ作られる贅沢品でもありました。
明治以降に製糖技術が発達し砂糖が安価になると、甘い小豆餡のおはぎが一般家庭でも日常的に楽しまれるようになりました。
おはぎに用いる餡には、大きく分けて粒あん(小豆の形が多少残った餡)とこしあん(皮をこして滑らかにした餡)があります。
地域や家庭の好みで使い分けられてきましたが、昔ながらの習わしでは秋のおはぎには粒あん、春のぼたもちにはこしあんを使うとされます。
秋は収穫したての新小豆を使うため皮も柔らかく風味豊かで、その粒を生かした粒餡が適していました。一方、春先は前年から貯蔵した小豆を使うため皮が固くなりがちで、取り除いて餡にするこし餡が基本だったのです。
このように餡の形状を季節で変えることで豆本来の風味を生かし、旬の移ろいを感じる工夫がなされていました。現在では粒あん・こしあんは好みで選ばれますが、春と秋であえて異なる食感を楽しむのも趣のひとつです。
また餡の甘さ加減も各家庭で様々です。昔の家庭では砂糖を節約して甘さ控えめに仕上げたり、塩ひとつまみを加えて甘味を引き立てる工夫もされてきました。
専門店では北海道産の上質な小豆を使い、銅鍋で丁寧に炊き上げるなどして素材本来の風味を生かした餡を作る店もあります。砂糖も白ざら糖や和三盆を使い分けるなど、店ごとのこだわりが伝統的製法の中にも息づいています。
おはぎの仕上げ方にはいくつかの伝統的なスタイルがあります。
代表的なものは、小豆の粒あんで餅を包んだおはぎですが、他にもきな粉(炒った大豆を挽いた粉)をまぶしたもの、黒ごまをすって砂糖と合わせたものなどが古くから親しまれています。
きな粉のおはぎは優しい甘さで素朴な風味、ごまのおはぎは香ばしさとコクが楽しめる逸品です。
定番の「あんこ・きな粉・ごま」の他、地域によってはずんだ餡(枝豆をすり潰して甘く調えたもの、主に東北地方)や、関西で見られる青のりをまぶしたおはぎもあります。
また季節に合わせて桜の葉や柚子を練り込んだ餡、秋には栗やさつま芋を使った変わり餡のおはぎが作られることもあり、伝統の中にも多彩な工夫が凝らされています。
形状についても地域差があり、一般的なおはぎは手のひらに収まる小判型(楕円形)ですが、大ぶりで丸い牡丹の花を模したものや、半分つぶして平たく整えたものなど様々な形が伝わっています。
仕上げの際に餡やきな粉を均一にまぶすには熟練が要りますが、家庭では多少形がいびつでも出来立てを早めにいただくのが一番美味しい食べ方です。
保存技術が発達していない時代、おはぎは日持ちしないため基本的に作ったその日に食べきるのが前提でした。餅は時間が経つと固くなりやすく、特に昔は冷蔵設備もなかったため、余った場合は涼しい場所に置いて翌日中に食べる程度しか保存が利かなかったのです。
現代では冷凍保存も可能ですが、解凍時に風味が落ちるため、伝統的なおはぎは作り置きせず作りたてを味わうのが鉄則と言えるでしょう。
おはぎは「家庭の味」として、各家庭に代々伝わるレシピや工夫が根付いています。
餡の甘さや塩加減、「隠し味」として味噌やはちみつを加えるなど、家庭ごとの個性が表れるのが特徴です。
一方、老舗の和菓子店や専門店では、素材選びから製法まで一貫したこだわりがあります。
もち米は一晩じっくりと水に浸し、蒸し加減を調整。餡は毎朝丁寧に炊き上げ、餅と餡の比率も計算し、最も美味しく感じられる厚みに仕上げます。
近年では「あんこ×バター」や「洋酒入り餡」など、新しい発想を取り入れた創作おはぎを提供する店も増えてきました。
それでも基本となるのは、昔ながらの「蒸してつぶす」「煮て練る」という伝統的な技法です。
一見シンプルに見えるおはぎにも、職人の経験と技が宿ります。家庭で作る素朴なおはぎとはまた異なる、完成度の高い逸品に仕上がるのが専門店ならではの魅力です。
とはいえ、「おはぎ屋もともち」のように、家庭の味を大切にしながら、丁寧に仕上げる専門店もあります。素材そのものの優しさを活かした、どこか懐かしさを感じる味わいが、多くのお客様に支持されています。
家庭製と専門店製、それぞれに良さがあり、どちらも日本の伝統的な“おふくろの味”を今に伝える存在です。
おはぎ・ぼたもちには古典や文献に由来する興味深い話があります。
江戸中期の書物には、丸めずに器に盛った餅に小豆餡を散らしかけたものを「萩の花」と呼び、その見た目が萩の花が咲き乱れる様子に似ているからだと記されています。これが女房言葉で「おはぎ」と呼ばれたのが名前の由来の一説です。
また前述の『物類称呼』に見られる各地の呼び名(かいもち、なべしり餅等)からも、昔から日本各地でおはぎが親しまれ、それぞれの土地でユニークな名前が付けられていたことがわかります。
おはぎ・ぼたもちは春秋以外の季節に食べる際、しゃれた異名で呼ばれることもありました。
夏場にこの餅菓子を食べる時は「夜舟(よぶね)」、冬場は「北窓(きたまど)」と呼ぶ例があります。これは「月(つき)がない」という言葉遊びに由来します。餅を搗かない(=つきがない)おはぎを、月の見えない夜はいつ船が着いたかわからないことから「夜舟」、北側の窓からは月が見えないことから「北窓」と称したのです。いずれも「搗き(つき)無し」→「月無し」に引っかけた洒落で、江戸っ子の粋なネーミングでした。
この他にも「隣知らず」や「奉加帳」などの異名が伝わっており、おはぎが人々に愛され遊び心の対象でもあったことが伺えます。
おはぎ(ぼたもち)は日本のことわざにも登場します。特に有名なのが「棚からぼたもち」で、思いがけない幸運を得ることのたとえとして使われます。
これは棚に置いてあったぼたもちが偶然落ちてきて、下で口を開けていた人の口に入る──という想定外の幸福を描いたものです。
このことわざが生まれた背景には、ぼたもち(おはぎ)が当時いかに貴重で嬉しい食べ物だったかもうかがえます。
何もしなくても棚からぼたもちが落ちてくるような幸運は滅多にないですが、それほどぼたもちは人を喜ばせるごちそうだったということでしょう。
おはぎは時代とともに少しずつ形態や味を変えながらも、その本質的な部分は変わらず受け継がれてきました。
例えば、現代では冷凍技術の発達により大量生産も可能になりましたが、老舗の和菓子屋ではあえて大量生産に頼らず昔ながらの手作りにこだわるところもあります。
素材も国産に限定し、小豆の煮方ひとつにも家伝の技を守るなど、おはぎ作りには職人芸と文化的背景が詰まっています。
また、おはぎ研究の専門家によれば「おはぎやぼたもちは古き良き日本の風習そのものであり、これらを次世代に伝承していきたい」との声もあります。
日常のおやつとしてだけでなく、季節の変化や先人への想いを感じられる象徴的な食べ物として、おはぎの伝統はこれからも大切に守られていくでしょう。